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お気軽吃音掲示板

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無題 - 王林ストレート

2025/11/24 (Mon) 09:45:18

吃音の消失について-私の場合

高校の時、中島敦の「山月記」が教科書に載っていた。国語の教師は虎が自身の身の上を話すところで感情を込め大げさな抑揚をつけて読んだ。誰かがくすっと笑ったのを記憶している。私はといえば、その他の出来事と同じく、全く何の感情もその物語に抱かなかった。多くの吃音者と同様、当時は出欠の返事するのも命がけといった有り様、学校生活の一片さえ謳歌できるはずもなく、もはや死にながら生きていだけといった体(てい)、常に心は暗澹としていた。

しかし、当時は死にながら生きるのに必死で何の感想も持たなかったとはいえ、やはり自分のどこかにはその虎の異常な自意識がひっかかっていたのであろう、その後、たまにあの虎を思い出すことがあった。一個人では負担が重すぎるのではと思えるほどの自意識の塊、極端なまでの気位の高さ、他人に嘲笑われることを対する異常な恐怖心、もはや、誰一人虎を救えないのは明らかに思えた。そしてその原因はといえば、もっぱら虎の自尊心の高さのみなのだ。飢えに苦しんでいたなら食べ物で救われる、病に苦しんでいたのなら薬に救われよう、しかし、原因が過剰な自意識であるとすれば、どうやって他人に救えよう。嘲笑われるのを恐れるあまり他者との交流を拒み孤独になり、傷つけられるのを恐れるあまり先手の防衛策とばかりに肥大する自尊心、結局本来なら自分を守るためのはずのそれらにがんじがらめになり、もはや身動きさえできず、窒息せんばかりになっているのだ。

それはまさしく私を含め、多くの吃音者の現実に違いなかった。

私はその現実をある意味数十年生きてきた。しかし、これは非常にシンプルに解決できることに私は気がついた。いや、多くの吃音者が既に理屈の上では気づいてはいる。自意識を薄めればいいのだ。あの虎も、自意識さえ薄めれば良かったのだ。別に人に嘲笑われたってなんのその、誰だって偉人だって時には誰かから笑われることだってある。自分より相手がすぐれていたって、それがどうしたというのだ。ある意味当たり前の話ではないか。どんな分野にせよ自分より優れている人はいるのだから、しかも自分は神の子というわけでもあるまいに。

自意識と吃音―両者の切っても切れない関係は以下に説明できる。多くの非吃音者が驚くことの一つに、どれほど重度の吃音者でも、独り言や、もしくは赤ちゃんや動物や植物が相手だと、自我(本人の自意識)があまり出ないので、たいていはペラペラ流暢に話せる、ということがある。これだけみても、自意識が吃音を生み出していると断言しても差し支えないほどだが、さらに詳しくいうと、心を許していて自我(自意識)を全面に出しやすい身内や、もしくは逆に全く気安くない相手、つまりは面接官、片思いの相手といった、相手に対する不安ゆえ相手及び自身を強く意識せざるを得ない相手だと吃音は重くなる(自意識過剰)。また、さらに付け加えると、それらの中間にあるのは、たまに会うだけの相手、一期一会の相手である。この中間の相手には、自我はペット相手よりは出るが、面接官ほどは出ない。つまり、吃音は全くでないわけではないが、そんなにひどくはなり得ない。この中間の相手には、スーパーでたまに会う知人、習い事で月に一度出会う友人等が含まれる。

上記のたとえにより、吃音者にとって吃音の強弱はその時の相手に対する自分の自我の表出の強弱だと結論づけられる。

吃音の世界ではよく知られたことであるが、吃音は治そうと努力すればするほど治りにくいとされている。当然である。吃音に対する意識過剰さは、そのまま吃音の強さとなって現れるからである。

当然、吃音の本質を知る治療者は、吃音者に吃音に囚われないよう説き、決して発話練習などさせない。それではなく、吃音とは全く関係のないこと、なにか自分の心が夢中になれること、わくわくすることを持つことを勧める。吃音者にとって毎日は拷問のようだからこそ、拷問でない時間を少しでも持つように励まし、そしてその時間を広げていくように勧める。

私が断言できる吃音消失への道もそれに尽きる。常に自意識が過剰の状態―自分は人から嘲笑されていないか、見下されていないか、憐れまれていないか、驚かれていないか等とびくびくしながら怯えている時間を少しづつ減らしていき、相対的に、自分がのんびりしている時間、ワクワクしている時間、楽しんでいる時間、何かに夢中になっている時間を増やすことである。楽しんでいる時間、私たちは誰もが、他者の目など大して気にはしない。あの人は私のことをどうみているのか、などと意識が働くことはない。そういう時は往々にして自分が楽しんでいることに夢中で他者の目を気にすることにまで注意を向けないからである。

最後に、この文章を書くにあたった経緯と、この文章が雑然としている言い訳をかいておく。
私はおそらくステレオタイプの吃音者であった。はじめは連発、その後難発となった。時代は今と違い、吃音はひた隠しにする人の方が多かった時代である。私自身も、自分自身にさえ嘘をつき、吃音を恥部と思い、仮面をかぶり、単なる頭の悪いぼんやりした女の子を演じ続けた。頭が悪い風を装っていれば、言葉が出ないことも納得されると思ったからである。吃音であることが知られるよりは馬鹿だと思われる方がマシであった。
しかし、自分に対しても仮面を被り続けることは私の内面を破壊した。高校では不気味な症状に悩まされた。就寝しようと思ったその直後、体が急激に硬直したと思ったのも束の間、ぐらんぐらんとひどい目眩に襲われ、不思議の国のアリスさながらすさまじい勢いで下降し、その先は閉ざされた空間であった。そこは永遠に出ることのできない、しかも死もない空間であった。永遠に鎖に縛り付けられる神話のプロメテウスさながら、私は発狂しそうなほどの絶望を抱えて苦しんだ。精神と肉体の死をあたえてください、と私はどれほど願っただろう。意味もなく精神が永遠に存在し続けなければならない恐怖は、死の恐怖よりも数千倍も恐ろしく思われ、打ちのめされた。そのような夜が幾度も続き、私は最初、霊の仕業かと思った。しかし、幾度も続くうちに私はついに気づいてしまった。それらは私が吃音の恐怖から学校をサボったり、早退したりした日によく起こった。つまり、学校をサボることに対する極度の罪悪感が、内面では消化しきれず、その現象を起こしているのだと。元々根が真面目で学校をサボるといった事柄とは気質的に無縁で、そんなことしたくもない私が、学校に行かないのだから、よほど精神に捻れが起こっているに違いなかった。社会に適応できてない罪悪感が激しいときに、きまってその不気味な現象は起こるのだった。

話は飛ぶが、その後私をまず変えたのは、マッサージだった。電話も取れないのに社会人になれるはずもないと思いこんでいた私は、就職活動をせず、フリーターをしていた。そのとき、暇つぶしによく行っていたデパートにリフレクソロジーというマッサージ屋があったのである。ただひたすら人から優しくされるだけという体験、言葉を介さず他人と接していられるという体験は、私の心にものすごく効いた。思えば、他人にきちんと触れてもらったことなど乳幼児のとき以来であったろう(物心ついてからの記憶では一度もない。これは単に私の親がスキンシップを好まないタイプであったこと等が影響している)。
そして、そのマッサージを受けている間だけは負の感情が浮かんでこないことにも気がついた。気持ちよさに身をまかせているとき、自我意識は働かない。私は、頻繁にリフレクソロジーに通うようになり、人から批判もされず、ただ優しくされるだけという体験を通じて、それほど他者が怖くなくなっていき、その後就職した。
ただそれでうまく行くはずもない。仕事ではあろうことか、言葉が命である窓口に配属され、なんとか誤魔化してはいたが、やはり仮面を被る生活は長くは続けられないことはわかっていた。当時の上司に吃音であるゆえ他の職に就きたいという手紙を渡したが、何もなかったことにされた。こういう、物事の負の面を受け取るのが生来できない人というのは一定数いるのである。彼は、私が吃音を打ち明けたことを受け止めるだけのキャパシティーがなかった。それに対して彼を責める事はできない。人にはどうしてもできないことというのがあるのだ。
自分の恥部をさらけ出すという手紙さえ効果なかったことを悟った私は、ちょうど結婚も重なり社会的な体裁も問題なかったため、会社を辞めた。

話が長くなったのでかなり飛ぶと(笑)、私は現在43歳である。先日スマホでレ・ミゼラブルのナンバー「夢破れて」を聴いていた。その中でファンティーヌという貧しい女性は愛する人に振り向いてもらえない苦しさを、<夜中に虎が襲ってくる>と歌い上げていた。もちろん、虎というのは実際の虎ではなく、比喩として、象徴としての虎である。私は中島敦の「山月記」の虎を思い出さずにはいられなかった。彼女は失恋の苦しさを歌い上げる。傷ついた自我、プライドの高い自我、他人に決して見下げられたくない自意識が、夜に襲ってくると言っているのだ。そりゃ、若者ですもの、さもありなん、と私は思った。しかし、これもまた彼女の自意識の独り相撲にすぎず、客観的にみてみたら、貴族で高潔なマリウスが美しく優しいコゼットを差し置いてまで詐欺師の親を持つ貧乏な彼女と恋人になるわけもないのは不思議でもなんでもなくむしろ自然なくらいで、彼と一度でも関わり合いになっただけで満足・それで良し、とすればいいじゃないか、と思える。山月記の虎もそうである。ただ彼は身の丈にあった考え方をし、自分がなれる職に就けば良かったのだ。飢えに苦しんでいるわけでもなし、病に苦しんでいるわけでもなし、本人も気づいている通り、単に自分の自意識に苦しんでいるだけの人である。

また、私は自分の師と仰ぐジョゼフ・キャンベルの「生きるよすがとしての神話」を最近読み直してみた。<禅>の項目のなんと興味深く、面白かったことか。「おまえの両親が生まれる前のお前の顔をみせよ」「片手でする拍手の音はどんな音だ」といった公案。それは、自分自分といった自分中心の自我で物事を考えることから、より広範囲へと意識を向けさせてくれる。キャンベルの言葉を借りるなら、部屋にあるいくつもの電球は、別個のものだと考えることもできるが、光としてなら同一のものだということである。つまり私たちも肉体で考えるなら別個のものであるが、より広い意識としてみるなら、その意識は私たちみんなによって顕現されている単一の存在なのである。

この考えはひどく私を勇気づけた。他人も自分もまた、同じ現象の別個の現れ方だと捉えるならば、なぜ他人を怖がる必要があろうか。自分も他人も別個に見える同じ現象、つまり同じ意識がその地下では流れているのである。私はこの考えで、自分と他人という強固な境界線を引くことの意味の無さを知った。吃音者にとってはその境界線は自我を意識させることにつながるため弊害でさえある。こうして自我意識が薄まった状態では、吃音は出る幕がなくなるのである。つまり、<治った>ではなく<消失>である。

私は吃音が気にならなくなった多くの元吃音だった人と同様、もはや、吃音に関する文章をかく気にはなれない。なぜなら私には他人に褒められたい、すごいと思われたいという欲がもはや無いからである。昔は吃音を治す方法について張り切って書いた。あの人はすごい!と言われたかったのだ。心の何処かで自分の書いているものの正当性に疑問を抱きつつも、その疑問に蓋をし、自分は吃音を完全に理解した!と大言壮語を吐いていた記憶もある。

今、私は、吃音の正体を理解したが、別にそれを声高に叫ぶ気にはならない。しかし、やはり、打ちのめされている人、死まで考え追い詰められている人がいることを思えば、私のこのささやかな文章もなにかのヒントになればと思って、雑だが思いのまま書くことにした。

最後に、救いようのないことを書くかもしれないが、私とて、学校時代や会社員時代に吃音を理解しても消滅などはしなかったとほぼ断言できる。そういった場では自意識、自我意識が働く場があまりにも多すぎ、それが吃音の消滅を妨げ、先延ばし先延ばしにするどころか、吃音を強めることにもなってしまっているからである。私は、会社をやめ、自分の裁量で行動がある程度決められる自営業という立場になったからこそ、ある意味、吃音の消滅などという楽観的なことがかけるのである。

私のこの雑な文章がみなさんの吃音に何かしら助けになれれば、幸せです。これにて私は寝ます。(笑)。

最後にでたらめな漢詩を

吃音の住処、これ自意識なり
自意識のあるところに彼は住み着く
頑強であればあるほど、彼にとって住み心地よし

彼に出ていってほしければ、レンガ作りをやめ、
木の家にしなさい
木の家でも住み着いているのなら、藁の家にしなさい

藁でもだめならあなたはこの大地全体を住処としなさい
自分の自意識の場所を定めず開放すれば彼は定住地を失いそのうちいなくなるだろう

しかし時折は彼の親戚が訪ねてくるかもしれない
今となっては草原を住処としたあなたのところへ訪れることもあるかもしれない

そのときはお茶をだしてもてなしなさい
彼がかつて住んでいたレンガの強固な城のような家について語り、笑い合いなさい

彼に関してはそのような付き合い方が一番いい

彼を否定したりバカにしてはいけない 彼を変えようとしてもいけない

そんなことをすれば彼は躍起になってまたしても頑丈なレンガ作りの家をつくろうとするだろう
ただ彼の話をきいてやり、否定も肯定もせず、彼を自然の一部、たまに吹く風のように扱いなさい 風はあなたに吹くことのあるが、そのまま通りすぎるものなのだから

(漢詩のつもりが詩になってしまいました)

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